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2023/01/04 20:33

昨年の暮、東京のお客様にご依頼を受けてオーダー枕や入院時の簡易寝具などのご相談とご依頼がありました。
フルセットの納品ではなかったので足代をいただくことになってしまい、それは大変なので
関東に出張のある時期まで1ヶ月ほどお待ちいただくものとしました。

2年ぶりの関東出張となり、設置の前日から前乗りして2泊3日で行きたいところを巡ることにしました。
東京ではちょうど大竹伸朗展が国立現代美術館で行われていましたので、そちらにも寄りつつ。
前々から行きたかったアントニン・レーモンドの建築が多く残る高崎市をゴールにして久々の関東出張を巡ることとなりました。

アントニン・レーモンド(1888-1976) 旧名:アントニン・ライマン
詳しくはwikiなどで見ていただければ良いと思いますが、軽く記載しておきます。
(以前に読み聞いたことも総合します。間違いがあればすみません。)

現在のチェコに生まれ、20代でアメリカへと渡りノエミ夫人の知人の紹介で
フランク・ロイド・ライトに師事を受けています。彼と共に日本に来たのは帝国ホテルの建築のため。
助手として来日をした際に厳しい自然条件に耐えながら暮らす美しい日本の文化に感銘を受けて定住。
ライトから独立してレーモンド事務所を設立し、彼の元で前川國男、吉村順三などが建築を学び、
日本の建築史に偉大な影響を残しています。第二次世界大戦の際にはアメリカに帰国しますが、
終戦を迎えると再度来日して戦後復興に貢献した建築家であると思います。
アメリカ国籍を取得していたので正確にはアメリカ人になると思いますが、帰国中は連合軍の依頼で
Japan-Village(日本の木造建築を知るレーモンドに焼夷弾などの効果を見るための施設)を作ったために
国内では良い感情を持たれていない方もいらっしゃると聞きますが、
彼自身は大好きな日本が誤った歴史を歩んでいたために、早く大戦を終わらせたかったのだと思います。
どちらにせよ複雑な気持ちでいたことに間違いはないと思います。


愛知県内では南山大学なども彼の設計によるものです。カトリック系の建築も多いのではないかと思いますね。
彼のことを知ったのはある映画がきっかけでした。
「人生フルーツ」という2016年に東海テレビが作成したドキュメンタリー映画です。
当初はあまり上映期間も長くなかったものだったのですが、反響が大きかった様で
私もその再演回で見たものと記憶しています。

建築家である津端修一さんとその妻英子さん。愛知県春日井市にある高蔵寺ニュータウンを構想され
なんとその自邸もニュータウン内に住んでいらっしゃり、その毎日の生活を記録したものでした。
実は津端さんもレーモンドに師事を受けており、単純に住んでいらっしゃるご自宅が素敵だなっと思ったのが始まりでした。



その当時は私も「建築」なるものにあまり知見がなく、一見して平屋の日本建築なのですが、
どこか北欧のサマーハウスの様な雰囲気があって。鋏状トラス(シザーズトラス)と呼ばれる構造に、
木材の木の皮を剥いだだけのなぐり仕上げ。後々から調べるとレーモンドの建築に行き着いたというところで、
その後に彼が作る物件をあれこれ見ているうちに家の構造や建築のあるべき姿など。
多くのものを学び、これが今の人生にも影響を与えています。


現在の仕事を選んだのも、「建築」である家の中に収まるもの。
また、それに順応するものであって。そこに住む方の生活を考えた際に
寝具という枠で見ると現代の日本に至っては選べる余地がない=私がやるしかない!
となったのも彼の影響が色濃いのだと想像しています。


そして、彼が唱える「五原則」なるものがあります。

① SIMPLE(単純さ)
② HONEST(正直さ)
③ DIRECT(直截さ)
④ ECONOMICAL(経済性)
⑤ NATURAL(自然さ)

と言うものです。

現在でも私が寝具を選ぶ際、作る際に考えているものはここに集約されます。
果たしてビジネスとして成り立つものか?安いものが大量に浪費されるこの現代で
この考えは完全にマイノリティーなのではないか?と考えたのですが。

人生フルーツの津端夫妻が受け継いだのもこの感覚なのだと思ったのです。
そうなった時には多くの方に理解できるものではなくなってしまいますから
彼のように取材の依頼を受けたとて、頑なに断る理由というのもなんとなくですが理解ができます。


ただ時代は多様化に向かって帆を進めており、また国際化、人や物の流通がネットによって自由化して
今や住む場所や務める会社ですらどこでも良い時代になっています。
私がこうやってご紹介せずとも知っていらっしゃる方も多いと思いますし、
彼のことを調べようとすればいくらでも情報は集まります。必要とされる情報かどうか?
これについては私も分かりません。ただ彼の作った建築や思想は今でも受け継がれて使用されています。

後は実際に訪れて撮った写真と少しばかりのコメントを貼り付けておきます。
個人のログとしてご覧いただければ幸いです。


・カトリック目黒教会
今回の寝具のご依頼主の目と鼻の先にある場所で目黒駅からも近いです。
この画角の画像をネット上で見つけてから、以前から行きたかった教会です。
金箔貼りのオブジェはレーモンドが発案し、所員の手で作られた様です。
私には鯨の尾の様に見えていました。


普段は一般解放されているようで、日曜日にはミサがあるようです。
西日が差すような設計になっていて光が溢れる設計は他の教会にも見られるようですね。
レーモンドは再度からの採光もすべてステンドグラスを考えていたようですが、
予算の都合で叶わなかった様です。ノエミ夫人がデザインした物をゼラチンシートを使い糊付けしていた様ですが
残念ながら数年で剥がれてしまったとのこと。当時の光の入り方が見たかったですね。


円のイラストはレーモンドが配置したようですが、これは意図して書かれた訳ではありません。
ここにはフラスコ画が描かれる予定だったのですが、これも予算が行き届かなかったのでしょう。
予備線として書かれたものがそのままデザインとして残されています。
そして当時、面白いのは建築を進める中で神父とレーモンドの関係が悪化し、
レーモンドの留守の間に神父が円の上からグリッドを勝手に描いてしまった様なのですが、
これは綺麗に塗りつぶされています。




採光

天井

壁のオブジェ(列ごとに違ったモチーフ)

祭壇横のレリーフ

正面のステンドグラスを内部から






外部から採光部を撮影

宗教建築の中にある伝統と原始的な祠の様な空間。
打ちっ放しのコンクリートの重量感もある建築でした。




・群馬音楽センター
1961年に完成された音楽堂はまさに市民の手で作られた建築物です。
ある市民の私財の全額寄付によって建てられ、30年後の修復もオリジナルのままを留めて
今も市民の音楽活動と文化活動に使用されている貴重な建物です。





中西敬之助氏が自業で築いた物全てを高崎市に寄贈した様です。
私は高崎市という街自体が文化度が高い街だと思っていて、東海地方でいう岐阜市の様な雰囲気があります。


戦前より蚕の生産や加工などで一大産業を生み出し、あの富岡製糸場も高崎市にあります。
明治時代に日本の外貨獲得の国策として発展した街は当時の活気はすごかったのだと思います。
花街の様な跡もありましたから文化や歴史的に見ても非常に濃い印象を受けました。

年間の高崎市の年間予算が8億円の時代に総工費3億3千万。
総工費の1/3は市民寄付で、町内会費が倍額になったということですから相当な熱だったのでしょう。

当時、音楽センター活動を押し上げたのは市民の文化的活動の他ならないところでしょう。
まだ国内に交響楽団がN響を含めても4つしかなかった時代に群馬交響楽団が
根拠地としてここにあり、完成1回目の公演の指揮は小沢征爾さんだった様です。
私は歴史の裏にあるこういったストーリーは現地に行かないと分からないものだと思っています。
高崎市が気になって仕方ない理由も。人が惹きつける匂いというのがかなり濃い様な気がします。




コンクリートでは全反響してしまうので、当時レーモンドは手回しの計算機を使い
音を程よく吸収する構造を長く計算していたそうです。

当時の群馬交響楽団の方からも助言をもらいながら慎重に進めたのがこの内部構造です。

目黒教会の様に自然の光が漏れている訳ではなく、これは照明によるものです。
しかし直接光源を見せないというも彼らしい作りなのではと思います。
日本的要素だけではなく、海外の(特にヨーロッパ)の考えが混ざっているというも
なんとなくですが感じられて、この建物がある高崎が羨ましくなりました。

まさに生きている建築。血が通った有機物のように感じます。
しかもこれがあのロイド・ライトの弟子というのもすごいことです。
守破離の世界はどの業界にもあるのだと思いますが、
師が偉大なだけに彼も相当悩んだと、どの本かに書いてありました。



後にでてくる井上房一郎邸の井上社長は高崎の建設会社、井上工業の社長なのですが、
ブルーノ・タウトと親交のあった人物で、レーモンドも井上氏が営んでいた軽井沢の輸入家具店で出会っています。


ノエミ夫人が行きつけにしていたようで、そこから親交が始まりこの大プロジェクトに繋がっていきます。
このプロジェクトも井上工業が携わっていて当時は生コンのポンプアップすら使えない時代だったので、
この量コンクリを全て足場を伝ってカゴ車を使って手で運んだのだとか、、均一に混ぜる為に竹棒を使って混ぜ、

1ブロックごとに丁寧に作られていったのだと書いてありました。
本当に途方も無い作業です。この建物が生きている理由はこういったところにも出ます。

私は専門家ではありませんが、おそらく良質な素材とその加工にあったのだと思います。
「丁寧に作る」これしか無いのです。日本のバブル期以降のコンクリート建築はダメだと聞いたことがあります。
海砂を海底から取って混ぜているもので、この時代の素材に比べて脆弱だということをある方から教えてもらいました。
鉄もコンクリも。素材一つ、作り方一つでこんなに表情や質量が変わるものかと感じました。



中にはレーモンドの展示室があります。

1次モデル。中央舞台のサーカステントのような造り。
中央舞台では歌舞伎ができないとのことで変更になったようです。

2次モデル

3次モデル(最終モデル)



ぐるっとまわり込んで見てもお尻までかっこいい建築でした。
彼も関わった旧帝国ホテルを移設する際に彼はこんなこと言っています。
「無神経な経営の元で、このホテルはオリジナルの印象も美しさも失っている」と。
要は保存は不要だと唱えたのです。

しかし、この建物は市民の手によって修復されて今でも現役で使われています。
コンクリート建築は30年に1度修繕が必要だそうで、次の修復がどうなるか分かりませんが
市民の手で守られていくのはないでしょうか。
年明けのニュースで見たのですが、淡路島の巨大観音像を50年前に30億で建てて、
これから解体に8億かかるらしいですね。この音楽ホールは1990年に同じ8億円で修繕されています。
そう考えると現代の高層マンションは一体どうなるのでしょうか?
いつか同等にモノは消えてしまいますし、いつかは終わりが来ます。
その精神性が残る建築をこれからも現地で見たいと思いますね。


その2に続きます。

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