最近何度か聞かれることもあるのでお伝えしますと、
新しいお店のリニューアルは2024年4月です。
工事は年内に開始して3月に出来上がり、1ヶ月試運転してから
正式にオープンするのは4月予定となっています。
工事の進行によってオープン時期はずれることもあると思います。
先日、足助地区の地域面談があり、地主さんをはじめとする
市役所、商工会、自治区、祭事などの責任者の方とお会いさせていただき
私のビジネスのことや、今までの経歴とお客様との関わり方などを
みなさんにお話する機会をいただきました。
建築プランなどと活動内容もご説明させていただくと、皆様からは承認をいただき
年末予定している工事開始や、資格申請に向けての実質的な動きがようやくできるようになります。
新しい店舗のコンセプトとして、「人の根源的な遊び」というものを意識しています。
それを叶えるためのロケーション選択であって、人の少ない自然豊かな町に行くという選択をしました。
そしていつしか本を読み進めているうちに出会った
ロジェ・カイヨワやジョルジュバタイユのような思想家の言う
「遊び」という概念は私の人生を形成する上で、重要な要素を司るようになりました。
私は常々、「遊び」という人間にとって不可欠な行動や思想を有意義にしたいと思っています。
これを提供する側から見ると、求められていないもの。
価値のないもの。本来なはなくてよいもの。
それがカイヨワたちの言う人の持つ遊びなのでは?
と思うのです。
もしご興味あればこの辺りから読んでいただけると面白いと思います。
ストレスの反対語はレジリエンスと言うらしいのですが、
この「遊び」を語る上では、私の持つレジリエンスはこの世界の中にとって
なんら影響のない無価値であるできものなのだと思います。
*カイヨワの4つの遊び区分
スポーツのような競争を楽しむ…アゴン
宝くじのような機会を楽しむ…アレア
ままごとのような模擬を楽しむ…ミミクリ
ブランコのような眩暈を楽しむ…イリンクス
本書の中で「遊び」はこのように図解できます。
消費行動に当てはめた時に、その中から人は合理的・非合理的かの判断をつけながら価値を消費します。
ただ、人は簡単にそれに費やした対価として絶対的な価値として見出したくなるのでしょうね。
むしろ見出さずにはいられない。対価の代わりの価値。
簡単に言うと「見返り」ということです。
他者の価値観への同調もその分類に入ると思います。
他者同調にについてもう少し解釈を広げていくと。
時にレアであるものと無名のものはスレスレだと思います。
誰もが欲しがる高価なスニーカーと、どこの子供が作ったと分からない陶芸作品。
人によって価値観は変わりますが、本質としてはそのどちらも同じなのです。
言っていることが分からない方もいらっしゃると思いますが、
どちらにせよ人の根源的な純粋な「遊び」によって作り出されたものは
アートとして評価される余地があるということです。
ただ、一つ相違するならば、この4つにそぐわないものは
一時的な消費で終わってしまうか、恒久的な価値は見出せなくなるのではと思うのです。
ARTとはこれもラテン語で、ars(アレス)に由来するらしく
この語源は「人の手を介した技術」のことを言うらしいのです。
現代でいうNFT(証明書付きデジタルデータ)とはそもそも相反する価値だと思います。
私はこの手仕事というものに惹かれてものづくりの世界に入りました。
ただ、店頭では一点ものの工芸品というものと、もう少しデイリーなプロダクトの中間のような。
矛盾はしていますが、ふわっとした言葉でいうと
どこにでもあって、どこにもないものを作りたいと感じています。
そして私はこの人間が作り出した遊びをふんだんに感じていただける
そんな店舗にしたいと思っているのです。
アートとは手仕事。
以前ヨーロッパに言った際に、ご年配の方からこんな言葉をいただきました。
「あなたはアーティスト気質だと思う」と。
その時は意味が全く分かりませんでしたが、お話ししたような意味では
恐らく私もアーティストなのでしょうね。
現代では表現者という解釈されることでしょうが、手仕事に関わるものは
大まかにアートと表した方が本来の意味に近づくのだと思います。
そして私はアートを人の不確定なものであるからこそアートだと認識しています。
産み落とした時には無価値であるべきと思います。
中世の画家たちの中には存命中に評価を受けず死んでいった方も多くいます。
そもそもアートを作り出す前に大多数の価値の担保しようとする
マーケティングは前提として美しさを語る上では相反するものなのだと思います。
先人たちが作り出した「美」の感覚は、おおよその見返りを求める陳腐な価値では
測ることなど出来ず、その意味を生活の中で理解することが
私たち消費者として扱うもの者の仕事だと思うのです。
話は変わりますが。
フランスのラスコーにある洞窟の壁画をご存知でしょうか?
これもよくカイヨワが挙げている例ですが、紀元前4万年前から
何万年もかけてその地に住む人が書き上げた壁画(落書き)です。
それでも宇宙の歴史から見ると瞬きほどの一瞬の出来事ですが、
私はこの絵を本当のアートなのだと捉えています。
直接見たわけではないので分かりませんが、
恐らくこれに意図的な意味はないのだと思うのです。
むしろ意味を見出さないといけないと価値がなくなると感じて現代人はこれに意味を付けたがります。
現代では人の行動に目的がないと不安になってしまうのだと思います。
これも面白いですよね。無価値なものには価値を後付けしてしまうことも辞さないのです。
ラスコーの場合、私は自然信仰の形と捉えていますが、
信仰とは多くの場合、技術や思想・倫理観の伝統であり、
近年に問題となっている「宗教=依存」(自身の心の平常化)とは全く異なるものです。
日本では個の中にある偶像神を持つことで安定を図りますが、恐らく元々信仰とはグループワークなのです。
当時は人の住まう場所にいろいろな落書きがあったと想像します。
ラスコーの洞窟だけはたまたま好環境で、その後何万年も残っていただけであって
これ自体が人本来の「根源的な遊び」なのだと思います。
そう思うと人はインプットとアウトプットで遊ばずにはいられない生き物で、
常に手を動かして何かを創造することで進化を遂げていくのではないかと思うのです。
逆に現代はシステムの完全構築によって「人の遊び」が産業の中から軽視されていきました。
これが現代人のストレスの一因になっているのでは??っと思うのです。
本来は伝達に不必要なコミュニケーションが生産性を欠いたもの捉えてしまうと
人は根から枯れていくのではないかという仮説を持っています。
生き生きして生活している人にはその「遊び」の真意が分かっていて
自由にそれを楽しむだけの時間と知識と想像ができているのだと思うと、
私の知りうる限りでは、たくさんの例に納得がいく説明ができるのです。
これにお金という価値は関係がありません。
人の手を解すものはお金を掛けずともラスコーの壁画のように
なんでも自由に創造してしまえるのが人間です。
これに理由付けは必要が無いように思いますし、
人はじっとしていればそもそも何かやりたくなる。
というのが本来の人なのだと思います。
ただその前提として「無価値であること」
「理解することを諦めないこと」
これを念頭にお店作りを進めていきたいと思っています。