当店は2023年7月31日に豊田市田中町の店舗は移転のため閉店。
同市内の足助地区にて新店舗を。というお知らせをしておりました。
現在一時閉店から1年が経ち、そろそろ思いを書いても良いかなと思い
このブログに向かうこととなりました。
近い方には既に私の口からご説明していますが、恥やプライドもなく本当のことをそのままに書きます。
SNSに書くのも何か違うと思い、広くご案内ができていないことも本当にすみませんでした。
結果だけ先に言うと店舗移転は失敗しました。
関わっていただいた方には本当に申し訳ない気持ちでいっぱいで。
お客様を含めて、たくさんの方の期待や信頼を裏切ってしまいました。
しばらくは何も手につかず、私も自身の無力さに打ちひしがれていました。
ブログを書けずにいたのも正常なご案内ができない状況であったのも
沢山の方が関わっていただいたことにプラスマイナスを含め感情的なものを晒すのも違うし、
そもそも文など書く気になれない状況があったことを最初に述べておきます。
まずここに至るまでの店歴を順を追ってご説明します。
本題はこの後にご説明しますので、面倒な方は読み飛ばしてください。
私は2020年4月に会社設立。アトマダ寝具店は2019年8月にオープンしました。
良く聞かれますが私は家業ではないです。むしろ公務員の子ですので
実家からの評価は安定安心の中から飛び出た異端。ということです。
今まで培ってきた経験やつながりをもとに、新しい業態の寝具店を開くことが昔からの夢でした。
知っていらっしゃる方も多いかもしれませんが、私の営む会社は
開店直後の9月からイオンモール内で子供服店の販売代行も始め
二足の草鞋を履く形で会社という塊を少しづつ肉付けしていきました。
これは前職の職場の上司から紹介を受け、現状の企業から業務継承する形で
個人事業主のまま販売代行業者として参入することを決めました。
当時、開業直後のまだ信用のない企業をモール出店させることはイオンとしても異例と言われました。
2020年1月には寝具買い付けと産地訪問のため初めてのヨーロッパ出張に出ると
歴史と文化という大きな壁にぶち当たり、取扱商品に大きな方向転換を決めました。
*ヨーロッパの紀行文は以前のブログにも保管しています。
素材の選定や新しい商品の開発。自身の信じるものを形にしながら
現在の販売システムが完成するまでに3年ほどを要しました。
そして同2020年。コロナという怪物にも大きな影響を受けました。
当店は2020年4月。緊急事態宣言前に2か月の休業を決めました。
休業前から毎日世界の感染者数と死者数。全国の感染者数と死者数を比較し、
その他のウイルスとのデータも比較もしていくと、
100年前のインフルエンザの感染拡大と似ている傾向にあることを掴みました。
死者は出ているものの世界全体の中では毎日起こる
その他のウイルス感染症と変わらないことが分かったのです。
その前提で今だから言えますが、子供服店の従業員が感染拡大前の早い時点で感染しました。
その時は契約からモール内の店舗は開け続けなければいけませんでした。
感染者が出れば即閉店という措置はその半年後ほど後だったように記憶しています。
今ではコロナウイルスに感染と言っても何ともありませんが、
世間的には正体の見えない殺人鬼がうろうろしている状況です。
感染した従業員からは「本当にすみません」という言葉を受けましたが、
私は感染した者に罪はなく、疑心暗鬼になった人間が本当の敵であることを告げました。
1日経ち各方面に対処と報告を終え、従業員が通った全ての導線を消毒するために指定業者が
夜間消毒することになりましたが、当時この費用請求が100万円を超えるものでした。
また、社内での感染がないことを確認したころにある電話が鳴りました。
未成年の従業員の親御さんからでした。まず子供服の店舗を閉店して欲しいということと、
そこで働く従業員の検査を会社負担として行って欲しいとの依頼を感情的に訴えるものでした。
まだ簡易検査が一般的でない状況の中で、大きな病院のみで行っている検査のみでしたので
必要であればその検査の費用もこちらで負担することをお伝えしました。
結果、感染拡大もなく、何とか大きな波を乗り越えたころに襲ってきたのは資金難です。
大きな商品改変を行うこともそうですが、店舗の閉鎖。休業補償。消毒作業代金。
寝具店の私は一人で活動していたので感染拡大防止に全く影響はありませんでしたが、
複数人を雇い入れしている子供服店では再度感染者を出さない対策を行いました。
代行契約している企業からの感染拡大防止用品の送り込みはありましたが、
不十分であると感じ、従業員を守るためにも器具の作成や薬品などを買い集め
当時同業を営む企業にも不足していた備品を共有しました。
今思えば独立後一番きつい時期でした。
資金ショートが目の前に見えたときに、さらに関係者からも訴追を受けたときのショックで
本当に心が壊れかけたこともありました。毎日寝れない日が続き
それでも追加融資をいただきながら何とか食いつなぎました。
これは独立を選んだ厳しさとして、私に修行しなさいと言っているのだと言い聞かせました。
毎月ここで終わろうかどうか迷いながら半年ほど営業していましたが、
決まってお客様からの大きなご注文をいただくことができ、
奇跡的にその期間を乗り越えることができたと思っています。
まだ経歴のない私にいろいろなものを任せていただいたお客様へは
感謝の気持ちで一杯で、今でも助けていただいた方の顔が目の前に出てきます。
今でもお付き合いのあるお客様もありますが、本当にありがとうございました。
そして2年後。軌道に乗り始めた2023年春、大きな出会いをいただきました。
私は開店から、いつか店舗移転し大きな設備の中で宿泊のできる店舗を持ちたいという夢があり、
店舗内装を簡易に留めたのもその理由からポリカの波板を使用した外装にしました。
店舗移転にはロケーションに重点を置き、山間部に入ることと決めていました。
私は暇を見ては空き家バンクの登録のある物件を中心にいろんな家屋を見ながら
商業使用転向できないかと時間を見つけては各地でお話を続けていました。
その中で出会ったのは足助地区の方々との出会いです。
足助支所の方にお話をしているとある担当の方が、空家バンクではないのでは?
とおっしゃっていただき、景観地区にある未登録物件に直接交渉を許可していただきました。
すぐにいい家主さんとも出会えて、仲介していただく足助商工会の重役の方にも
仲介に入っていただきながら契約までたどり着くことができました。
2023年5月すぐに店舗へ移転を決め、7月末には退去することとしました。
開店までの間は移転期間としてお客様にご案内しながら無店舗運営を続けていました。
当初2023年冬には開店する予定でしたが、店舗デザインと施工を行っていただく方々の都合もあって
2024年1月を目途に進めることとなりました。
期間も十分にあったことから12月開示の事業再構築補助金にもチャレンジすることにしました。
続けざまに2023年秋、子供服店の2店舗同時増店依頼があり、
これも私に課されたチャレンジであることと感じお受けすることにしました。
自身の開店準備と同時に従業員の確保と研修に時間を充てることとなりました。
12月中旬になると月末であった選定事業者の開示が2月末にずれ込むとの公開がありました。
コンサルタントに聞くと、コロナ対策の補助金詐欺や需給を受けた事業者が開業を継続せず
持ち逃げたり、交付が一部の業種に偏っているというなどの問題が露呈したためと聞きかされました。
仕方なく工事は一時中断となり、2024年2月末まで開示を待ちながら工事は年明けに先行開始することにしました。
更にオープンはずれ込んでしまい4月となってしまいました。
止まっていると死んだように感じる私の癖が悪いのか、
2024年の全てのことが決まっていくと年末年始の休みが多く取れたこともあって
ある疑問が私の心を揺さぶりました。子供服店の同時開店も3月。
寝具店のオープンである4月までの間は私はやることがなくなってしまうのでは?
足助の店舗も完全予約制で、基本土日以外は開けるつもりも無かったので
今、会社員を兼業することもできるのでは??
40代で負荷を増やしておけば、その先に感じられることも増えるのでは?
年末にそんな思いを以前の会社の同僚に漏らしていると。
年始にその情報に食いついてくれたお世話になっていた社長から直々に
「戻ってきて欲しい」との依頼を受けました。
今では寝具業界をトップリードしている企業の社長がわざわざ私に会って
そんなことを言ってくれているのはそうあるチャンスではないし、
10年前に勤めていたころからはかなり社内環境が変わったとお話もあって
寝具店、子供服店にプラスして寝具バイヤーとして復帰することになりました。
その企業のナンバー2の方が以前に私のことを評価してくれたこともあって
その方が起業後も店舗に会いに来てくれたり、食事に誘ってくれていたりしていたので
復帰の際にアテンド役としてまずは年始、久々にお互いの状況を話しましょうと
自宅の近隣店舗に呼んでくれていたのですが、行ってみるとだまし討ちで社長も同席していたのです。
まさかそんな状況とは思わず、私は「やられた、、、」と感服しました。
彼は「社長は決めに来るでしょうけど、いなしてくれていいですから」と言いますが
完全にハメられています 笑
私はその空気感とその方の背中を借りて勢いで入社を決めていました。
会社を経営しながら入社でも良いという条件も飲んでいただき、
店頭のベッドに腰かけて、早々にその場で年俸の交渉もあり、
私は「一度不義理を働いた身ですから条件も何でも良いです」と告げ
全てを流れに任せて、その場で2月から入社ということになりました。
現在リバイバル入社で半年を迎えていますが、
お話しした子供服店、寝具店、寝具バイヤーとして。
3つの役割にチャレンジしながら毎日を過ごしています。
主に平日は会社員として。土日にその他の仕事を行っています。
先日ある大学からアントレプレナーシップ(企業内独立精神)講義の講師として
イノベーションを起こす人のつながりで登壇依頼があり、ここでも週休0日であることをお話ししました。
とにかく前向きに。チャレンジを恐れず、立ち止まらないことを伝えても
現代の社会価値とは大きくずれている様で、学生には軽く笑われましたが。
その中でも数人は真剣に話を聞いてくれました。現状私はこのような働き方をしています。
一番重要な店舗移転失敗については、このやりとり中で私と施工業者、
仲介してくれた方々、そして家主さんとの意思疎通が行われないまま
私が工事を開始してしまったことにあります。
そして、このまま2月末の開示であった助成金も不交付となりました。
私もなんでこのようなことになってしまったのか、私が全ての交通整理をできず
キャパ以上のものを掴もうとした結果がこのような事態を生み出したのです。
ここまでを順を追って話さないとすべてがつながらないと思い、
思い切って私という個を大きく露出した書き方をしました。
店舗には私と別人格が宿っていると思っていて。今までこういった書き方は避けてきました。
これも良く聞かれるのでお応えしておくと、寝具店はやめません。
現状自宅から近くでビジネスホテルを営んでいる方からご厚意でお部屋を貸していただいています。
寝具のご相談や、枕の調整などはこちらで行っています。
ただ、現時点では店舗再建は一度白紙にしたいと思っています。
今回の退店開店予算で資金を使ってしまったこともあって、もう一度立て直しを図ります。
私を評価してくれて足助に招き入れてくれた村定酒店の中山さん。
工事を中止した後も家主さんと交渉してくれたり、私をどうにか足助に招き入れるために
沢山の尽力してくれた方が年明けに急逝されたことも大きく関わってきます。
いつかまた足助に店舗を持つ夢を諦めたわけではありませんが、
彼の死が私の中でも大きなものになっています。
葬儀にも参加しましたが、亡くなる前に私に諦めず足助で店舗をやって欲しいとおっしゃっていたことを聞きました。
足助の中で私を紹介して回ってくれて、2人の若手の職人に出会いました。
靴職人、MONの奥村君と出会ったことも。
家具職人、MOUNTAIN VIEW wood workingの市川君と出会ったのも。
若い職人に出会えたことは中山さんのおかげです。
9月末に市川君が主催するイベントに出店することになりました。
今まで書き綴ってきたことも詳しく彼らに話をするつもりです。
ここまでがこの1年間の経緯となります。
引き続き寝具店の活動は行っていきますし、
会社員を続けながら店舗再建を目指して動いていきます。
全てはこの先の未来に対して、自他ともに希望を持っているからです。
現在お電話でのご対応はできないために、メールやDMなどでご依頼はお受けしています。
私もすぐご対応ができないというデメリットはありますが、ご理解をいただければ
ご連絡くださいませ。よろしくお願いいたします。